私が素敵だと思う音楽の人や作家には、作品に鏡のモチーフを使う人が多いです。
鏡の問題を扱うということは、必然的に主体の問題とそれにまつわる知覚・官能(エロい意味ではなく)の問題、二面性や、量産・再生産の問題などに触れざるを得ないということになってくると思います。そこから、近代的な(現代的ではない。決して。)色気が出てきて、私はついついくらくら。いかしてます。でもこの書き方のみだと、鏡を使うから好きになるのか、好きな人に鏡を使う人が多いのか、分かんなくなりますが、たぶん両方です。と、言いたいです。ここはあえて。
あ、ここはほぼ自分語りの場所だから、連発してますが、そして、今ここにしか書く場所がないから書きますが、私はしろの歌詞では、一人称を絶対に使わないと決めてます。やたらと私小説的に読むのが好きな人、多いですよね。好きでやってるのか、それしかできないのか、知りませんけど。でも二人称は沢山使います。二人称が既に一人称の示唆にもなってしまう面がありますが。あと身体を意識的に多く書きます。歌詞でなら身体に触れることが出来るような気がするからです。たとえば、歌詞がたち起こされる時は常に、声があって、喉があるわけですから。絶対に、単なるエクリチュールではないですよねこれ。かと言って、単なるディスクールでもないですね。「いま・ここ」が繰り返される!不思議!でも受け手の「いま・ここ」は繰り返さない!不思議!
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